2015年7月17日金曜日

小鳥の死に立ち会いました

昨日、小鳥の死に立ち会いました。

職場の人が、お昼休みにご飯を買いに出かけて、
地面に落ちて飛べずにいた小鳥を拾ってきました。
どうやら巣から落ちたようなのですが、巣はどこかわからず。
茶色い小さな鳥で、雛鳥までではないにしてもまだ幼い鳥でした。

足を折ったのか飛べないようで、心配になった職場の人が見捨てておけず拾ってきたようで。
私だったら拾ってこないだろうなあと、判断の違いを感じながら
弱っている様子の小鳥を眺めていました。
とりあえず箱に入れてお水を上げて様子を見ていたら、
しばらくすると首を反り返らせて苦しげにもがき始めました。

ぐったりしてはもがいてを繰り返し。
そのまま1時間くらい経過したでしょうか。
反り返りはひどくなり、時々痙攣するような様子を見せ。

もう寿命はわずかかと、職場の一人が、仕事が忙しくなる前に埋める穴を掘りに行こうとしたら、
拾ってきた人が、まだ生きているから待ってほしいと止めました。

ふと触れてみると、さっきまで温かかったぬくもりは失われて冷たくなっていて、
気づけば体もしぼんだように小さくなっていました。

そして急に目と口を大きく開いて、全身を真っ直ぐに伸ばすように痙攣し、
拾ってきた職場の人が末期の水をと、スポイドで1滴、2滴、3滴とふくませた時、
飲みこんだ水とともに静かに目と口を閉じて動かなくなりました。

小鳥の遺骸をどう対応するかを役所に尋ねると、
”ゴミ箱に捨てても大丈夫ですよ”
と言われ、みんなびっくり。
さすがにそれはちょっと、と業者に引き取りに来てもらうことになりました。

小鳥の死のプロセスを目の当たりにしたのは初めてで、
私は生命の不思議さと、少し後ろめたさを伴う好奇心を感じていました。

そして、このプロセスの間にそれぞれの判断基準の違いがよりあらわになって、
何とも表現しがたい心持でした。

死に対してどう向き合うのか、どう観るのか、どう扱うのか、
何が正解とは一概に言えません。

観術では、存在は存在しない、生も死もない、
全ては無から有が生じている、
というように述べています。

存在がどのように生まれるのか、
生死が何なのかをわからずして、これに向き合うのは困難だなと思いました。
存在、生死の仕組みがわからないと、判断する基準も持てないからです。

誰もが当たり前に、
無から有が生まれること、
存在の仕組みがわかる時代になった時、
今回の小鳥の死とも全く違った出会い方になるのだろうなと感じました。


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